思想としての学校空間
人間が夢見るどのような「共同体」であれ、それが憧れや追憶の対象
になり得るものには必ずある集団を包み込む力学と、集団から個を排斥
する力学が相互に働いているというのがごく常識的な物の見方だろう、
と思う。そして「共同体」に固有の共通の言語がまず在って、その「共通語」
がコミュニケーションの役割りを果たさなくなった時、《他者》を切り捨てる
思想がまかり通る、というのがありふれた解釈の仕方なのである。学校
社会もおそらくこのような雰囲気に包まれている空間なのだ。
しかし、教師存在がこのような視座からしか物を視れないとすれば、
時として学校空間は殆ど恐怖政治の<場>になり果ててしまう危険に
満ちている。学校空間から、《他者》として排斥され葬り去られた人間たち
は、相対的多数の人間の「共通語」を持たない、という理由で追放され、
あるいは自ら脱出し続けているのである。
私が問題にしたいことの核心は、端的に言えばどのような共同体であれ、
人間が集団を形成する空間に「共通語」なる概念はもともと存在し得ない
ということである。また、もし他者との間で、ある事柄が了解し合えるような
場合でも、私たちは安易に「共通語」によって了解し合ってはいけないという
ことだった。私たちに最も必要なことは、「共通語」というものの実質が元来
フィクションに過ぎぬという事実に気づくことなのである。それは、互いが
同じ言葉を話していても、もしかするとそれとは全く違う概念で物事を理解
しているのかも知れぬ、という懐疑と畏れなしには、正確な意味での
コミュニケーションは成立し得ない、という逆説に気づくことでもある。
このことを思想的な側面から捉え返すと、言語によって私たちが了解
している様々な事柄とは、実は言い表すべき内容がまず存在し、言語とは
その内容を表現する手段に過ぎない、という「常識」を根底から覆すことに
他ならないということになる。かつてソシュールがそれまでの言語学の概念・・・
言い表すべき絶対的な実体がまず存在し、言語とはそのあらかじめ存在する
実在を表現するための道具に過ぎない・・・を限りない相対主義の中に
投げ込んだように、一見「常識」と思われている諸概念をバラバラに解体し
尽くして、検証してみるという思想的な格闘がなくてはならない。そして、
その格闘を通して言語学的にはごく普通の考え方が、私たちの日常性の
レベルでは全く通用していない、という現実を識るべきなのである。私たちの
日常の言語活動においては、残念なことに、未だソシュール以前の蒙昧な
理性主義がまかり通っており、学校空間で生起する悲喜劇は多分に教師の
側の古典的とも言える理性主義のなせる業なのである。
近代の理性主義は学校空間における価値意識を絶対化するための便利
なジャーゴン(隠語)として生きながらえてきた。教師存在にとって、このような
理性主義は、「自由」も「平和」も「平等」も語れないほど不可欠な要素なので
ある。私は確かに、既成左翼が戦後民主主義を構築してきたかのごとき風潮
を嫌悪する。が、既成右翼(日本の右翼思想も、一般に信じられているように
情緒的なものではなく、その本質は近代的な理性主義である)にはそれ以上
の嫌悪感を禁じえない。何故なら、私の目から見れば、両者は互いにある種
「絶対的なる価値意識」をさらに絶対化するための活動をしかなし得なかった
からである。彼らにはいかなる大言壮語を駆使しても<世界>の姿のカケラ
すら視えはすまい。と言うのも、近代の理性主義とは、もともと実在するはず
のないある絶対的な価値を、言語によって言い表わせるかのごとき錯誤を
常識としてきたからである。
高度消費社会といわれる今日においても、労働に対するモラルが営々と
して説かれているのが学校社会の現況である。自分のなすべき事がこの
<世界>の中に確実に存在するはずだ、という「思想」なしには現代の高学歴
社会の癒しがたい円環運動を説明することは不可能だろう。私たちは、確かに
世の中の様々な矛盾の存在に気づいてはいるが、それらの矛盾が起こる
思想的背景については、あまり考えはしないものなのである。現代に通用
する「歴史」とは、畢竟、個々の現象に対するジャーナリスティックな解釈とでも
規定しておいたほうがよさそうである。
高度消費社会に生きる人間に、思想というものが存在しているとすれば、
それは少なくとも、様々な絶対的な価値意識をも喪失した後に訪れる虚脱感の
ようなもの、とでも形容すればよい。いや、むしろ人間の存在のはじまりから
絶対的なる価値意識など原理的に存在し得なかった、と言った方が正確な
表現なのではないか、と思う。
人間の知性はフィクションを創造する。最大のフィクションとは神という
絶対者であった。勿論、神を否定するフィクションも数々あった。しかし、
何故人間がフィクションを必要としてきたのか、という問いを突きつめて
考えればそれは、やはり人間にとって絶対に克服不能な<死>のイメージ
を何ほどか隠蔽する試みだったのではないか、と思われる。だからこそ、
死に対する不安感は人間の<気分>の本質としてつきまとうようになった
のである。ハイデガーは、人間は自分の<死>の可能性を直視出来ず、
<死>を日常性の中に隠蔽するために共同の掟を創る、と言った。そして
日常性の中にまぎれて<死>の存在を忘却・隠蔽しようとすることを「頽落」
と称したのである。言葉の定義はそれぞれ異なるが、ニーチェも
キュルケゴールもバタイユも同種のことを、人間の存在本質の大切な
一項目として論じたことに、私たちは改めて目を向けるべきだろう。
学校空間で生起する問題は、上記のような事柄とは無縁のことのように
見えるかも知れない。しかし、少なくとも私に言えることは、ジャーナリスティック
な視点でも、政治的な力学を変化させることによっても、学校空間に存在する
様々な問題を根本的に解決することにはならない、ということである。
学校空間に対して、若者たちが耐えがたいという意識を抱く時、己れの
<未来>が実感できないことからくる憤りや怒りを自己表現の手段にしようと
するのはごく自然なことなのである。「問題行動」というジャーゴン(隠語)に
よって語られる殆どの若者たちの行為は、己れを取りまく「世界」への働きかけ
でもある。無論、大人の期待する行為によって己れを表現出来る若者も多い。
しかしそのことが、若者の評価を決定する唯一の要素ではないということも
認めるべきなのだ。皮肉なことに、己れの<未来>が視えないという点では
教師存在も殆ど若者たちと同じ認識のレベルである。だからこそ、教師存在は
己れ自身の精神の試行錯誤を続けているべき存在なのだ。ところが、現実の
学校空間で繰り広げられる「生徒指導」の実質は、表層的には絶対主義的な
倫理観を代弁しているように見えながら、その実体は生徒である若者に欲望の
論理を如何にして実現させ得るか、という処世の術を教えているに過ぎない。
この意味で教師存在とは、己れが生きる社会「体制」を積極的に支え、擁護
する役割りを担っている訳なのである。それは、教師個々のイデオロギーの
問題などではない。存在の基礎的要件が、好むと好まざるに関わらず体制的
なのである。その様は宿命的と言っても過言ではない。教師が喋るいかなる
言語も陳腐なジャーゴンになり果てることが多いのは、教師が己れのイデオ
ロギーの問題と、教師存在という基礎的要件との思想的距離感を正確に把握
できていないからなのではないだろうか。
教師存在が現代に生きる若者に通じる言語を持ち得るか、という可能性は、
実は私たちがすぐに思いつくどのような方法論においても皆無である。教師
たちのジャーゴンを受け入れるには若者の心は余りに傷つきすぎている。
大半の若者たちは<生>を実感するために学校空間にいるのではない。己れ
の<生>にまつわる様々な欲望の論理を叶えるために、辛うじて学校という
「場」にとどまっているに過ぎない。彼らが何ほどか<生>の実感を得る機会
に恵まれるのは、むしろ物理的・心理的に学校空間から拡散していくときなの
である。俗な言葉で言えば、学校というところは至極退屈で、居心地の悪い
場所なのだ。 しかし、こんな時教師の口をついて出てくる言語は、安手の
ヒューマニズムに関わるものか、克己のための空虚な言葉のどちらかなので
ある。現代に生きる若者は、教師に対してあからさまな反抗などしない。
教師の、どのような言葉によっても決して自分は説得されない、ということを
百も承知の上で聞き流すのだ。
若者たちの「物悲しい」処世の術に、風穴をあけられる可能性が残されて
いるとすれば、それは、教師の言語に<生>の衝動をうながすような気配が
見えなければならないだろう。そのためにこそ<生>への執着が必要なのだ。
消費社会で生きるための欲動があって、<生>への執着心が生まれるでは
ない。それは、私がこの拙論の中で取り上げた哲学の先人たちの思想的格闘
の軌跡を辿ってみることから始まるだろう。そのプロセスで<生>を論じる
ために「死を想え(メメント・モリ)」という観想に行き着くはずである。<生>
を本当の意味で実感できるのは<死>に関するあらゆる考察を経てからの
話だろう。「死を想う」ことなしに、ありふれた<生>の謳歌をするのは道化の
仕事である。若者たちが、学校空間から限りなく離れていくのは、道化の仕事
に付き合うほど暇でも馬鹿でもない証拠だろう。
私たち教師存在に残された最も大切な仕事の一つは、若者たちと交通可能
な言語を創造することである。そのようなフィクションを創る過程を経ることなし
に、学校空間の存在理由を探ることは不可能に等しい、と私は思う。<死>を
隠蔽するのが、宗教という媒体を通して培ってきた人間の知慧ではある。
しかし、宗教的媒体を介在させた<死>の認知は、隠蔽することが主な目論見
である限り、このような試みは時代の諸相としておそらく限度にきている、と私
には思われる。
<死>は個の存在の全ての終わりに過ぎないという実感が「死を想わせる」
のだ、とも思う。そして、私たちにとって大事なフィクションは「死を想え・・・
メメント・モリ」という暗い叫びの中にしか芽を出さない。
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